hoshikuzuの日記

2006-08-01

「われおもうゆえにわれあり」

入力欄に余白がまだあるので、無関係だけれども、ついでに書いておく。(苦笑)

「われおもうゆえにわれあり」デカルトの有名な言葉である。これがギリシャ語新約聖書での、イエスが語った「エゴー・エイミ」に引っ掛けてあるという可能性にさっき気がついた。イエスが捕まって「エゴー・エイミ」と裁判で言ってしまったため、それを言質にされ、死刑判決が出たのである。なぜ死刑になったのか?ユダヤサドカイ派とファリサイ派にとって、イエスが語った「エゴー・エイミ」とは、イエス自身が神であるということをイエス自身が語ってしまったという意味において宗教上この上ない重罪なのだからだった。唯一神を冒涜したことになるのだ。「エゴー・エイミ」は、英語では「I am that I am」に相当する。古くは、旧約聖書においてモーセに対して神が言った言葉だ。モーセが神の名前を知りたいと願った。民衆に聞かせるためである。神からの回答は「I am that I am」だったのだ。はっきりいえば、これは名前ではない。権能を表しているのである。神は名前を持たないのだ。これ、旧約でも新約でも聖書の常識。さて、この「am」は、シェイクスピアの作品で使われている用例と関連する。「To be or not to be, that is the question」 生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ、とかいう例のセリフである。「I am that I am」の本来の解釈として、2番目のamが「生きる」という意味の単語の派生物であると捕らえなおしてみよう。「I am that I 生きる」これが理解の為の最初のステップだ。1番目のamは単なるイコールである。ここが謎解きとして非常に面白いところだ。今は説明上簡単のために英語と日本語チャンポンで説明しているが、実はギリシャ語でも同じである。「I am that I 生きる」。なんとなく素晴らしい感じになってきたであろ?ここまでで、中途半端だが、正しい意味の取り方がわかってくるであろ?「私は、生ける神である」ということになるのだ。権能の表現なのである。

余談だが昔、名前を名乗ることがはばかられる女王が日本にいた。中国からの使節に面会して名を聞かれ「ピャメルコ」とかなんとか言ったに違いない。これが有名なヤマタイ国のヒミコである。ところが、実際にはヒミコとは、権能を表す一般名詞だったのである。「大統領である」とかなんとか答えるのと同様で、官位やら職位やらを名乗ったことと同じである。ヤマタイにおいて、ヒミコというシャーマンの権能を有する者はただひとりであるから、名前を答えずに「私はヒミコである」と答えたのだ。なお、ヒミコが死んだ後にトヨという宗女が2代目をついだが、トヨは本名でヒミコを継いだのである。各地に伝わるヒミコ伝承に二重性があって素人研究家の夢が広がってしまう理由のひとつになってしまっている。このへん、物部氏の家系図やらなんやら調べてみるがよろし。ついでに言うが神功皇后はトヨである。トヨはヒミコ職を武力で奪ってしまった。なお権能でもって特定の人物を指すのは近代日本でも行われた。「のう?美濃屋?」「ふっふっふ、越後守さまもオヒトが悪い」越後守なんていたかどうかなんて私は知らないのでツッコミを禁ず。

閑話休題

さて、「I am that I 生きる」に戻ろう。「私は、生ける神である」という中途半端な訳を作業過程においてご紹介した。ちょっと補足しておくが、「生ける神である」というと「死んだ神」がいるのかという疑問がわく。旧約聖書的な神学の立場で言えば、これは絶対にノーだ。神は唯一なのだ。したがって、一般名詞としての「神」に修飾語として「生ける」を付加し特定の神にしている翻訳は間違いなのである。雰囲気は出ているが、謎はまだ半分以上残っているのだ。単なる名乗りではなく権能を紹介しているのであるはずだから、「I am that I 生きる」は「私は、生ける神である」ではなくて、「私は、生ける●」という訳になるのだ。●は関係代名詞だ。いっぱい神様がいては困るのである。なにしろ唯一神だから。つまり、「生ける●」と言明すること自体が、《唯一の創造神》であることを証明しているという見地に立つことが、「I am tha I am」の本当の理解のしかたの次の一歩になるのである。

ところでここまで来てもまだまだ道なかばである。辛抱するがよいぞ。(最近になって我が身は時代遅れだが星界の紋章シリーズを読んだので口調が一部移っている。許すがよいぞ。面白い。早く最終巻出せ>作者)

「I am that I 生きる」の意味をずいぶんとたどってきたのであるが、もう少し歩みを進めてみる。 ここで古ヘブライ語の世界に突入だ。ヘブライ語には私達日本人が理解できない、そして英語を解する者達が理解できない「なにか」があるのだ。「Ehyeh Asher Ehyeh」これが、ヘブライ語表現の「I am that I 生きる」だ。「Asher」は関係代名詞みたいなものだと思ってくれてよいだろう。問題なのは、「Ehyeh(エヒイエ)」だ。これは、不定形において、「hayah(ハーヤー)」という動詞である。ハーヤーとは、「生成する」、「生起する」、「作用する」、「有らしめる」という動詞なのである。ただ、肝要なのは、これ以外にも意味を持つということなのだ。ヘブライ語においては、ひとつの単語の意味が非常に幅広い特性がある。ふくよかなのだ。痩せた機械的な訳語がスパンと決まることはなかなかないのだ。ただ、初期の聖書において、ギリシャ語聖書が助けになるだろう。70人訳聖書というのがあって、これは、ユダヤ人ギリシャ語で書いた聖書なのだ。そこには、「エゴー・エイミ・ホ・オーン」と書いてあることがわかっている。恐らくこちらからも絞り込めそうだ。

ここでは、「hayah(ハーヤー)」の意味として、「有らしめる」を取ろう。無論、ダブルミーニングも考えられる。「生起させしむる」という感じだ。もうちょっと掘り下げる。「有らしめる」じたい、既に英語で言うところの使役動詞になっていることに注意。「走らせる」とかとういう感じだ。「走る」替わりに「生きる」だとどうだろう。適切な日本語があるかな?「生かす」という感じだろうか?いや、実はもっと深いのだ。受動態が「生かされる」ならば、その反対は使役の「生かす」なのだが。この「生かされる」と「生かす」との両者の関係をズバリ重視した見地として、「hayah(ハーヤー)」があるのだ。丁度、ただ単に走らせられているのではなくて、タバコを買いに走らせられているのは、それを指示している主体者がいるから・・・といった状況を想定してみてもらいたい。単に走らされているのではなくて、走らせている者を強く強く意識し、関連つけてみてもらいたいのだ。このニュアンスで「生きている」という言葉はどうなるか。その受動態はどう?「生かされている」という言葉はどうなるか?もっと使役する側としない側との両者の関係を意識にのぼらせて「生きている」ってどういう意味なんだろう?では、「生起する」ではどうか?「生起させしむる」はどうか?「有らしむる」とはどうか?存在=生命のニュアンスにおいて、生かされている者とそれを生かしているものとの関係を意識できるか?

「Ehyeh Asher Ehyeh」

「Ehyeh」は、ヘブライ語において、「hayah」の変化形であること、そして多義語として「hayah」は広い概念を含むことを示した。さらに使役と受動態との両者の関連を意識した形であることも示唆した。この両者の関係を強く意識した表現こそが、不定形「hayah」を「Ehyeh」に変える要因なのである。「Ehyeh」は再帰形であろう。再帰形とは「自身に~させる」 ヒトパエル態とも呼ばれる。

「Ehyeh Asher Ehyeh」は、「生かされる有らしめられる生起させられる存在させられる」ことを自分自身が使役する再帰形において、表現できている。そしてなおかつ、権能の表現において、このように述べれば、そのことが確定し相手に伝わることを要求しているのであるから、「唯一の」という意味が文脈において発生してしまう。

私達は生きている。いや、生かされている。いきいきといきている。いきいきといかされている。「Ehyeh Asher Ehyeh」と名乗るものもまた、同様だ。そして、「Ehyeh Asher Ehyeh」と名乗るもの【だけ】が、このような状態を作り出した唯一の存在である、そのように権能があるのだと、自身を表明しているのである。これがYHWHである。ヤーウェと読んでもかまわないが、それは意味をしっかりつかんでこそだ。そしてこれが、ギリシャ語での「エゴー・エイミ」であった。

イエス死刑判決が出る場でもって「エゴー・エイミ」と発言してしまった。これが致命傷になって有罪となったのである。唯一神への冒涜であろうと断罪されたのだ。

日本語聖書だけ読んでいてもちっともそのへんのニュアンスが伝わってこないのは残念である。ともすろと「I am that I am」にしても、意味が伝わってこない。たぶん英語のネイティブの人にもわからんのじゃないのか?「オレだよオレ」ぐらいに捉える人がいるかもしれない。オレオレ詐欺か?裁判において「このナザレのイエスは【オレだよオレ】と言ったから有罪である」なんて弁論されても迫力が無い。日本語聖書読んでも「わたしはある」とか書いてあるだけだ。ただのbe動詞かよ?「I am」じゃないよ。せめて「To be or not to be」ぐらい思い出して翻訳してくれい。生きているんだと。そして、生かされているんだと。そしてその生きていることを唯一保証しているのがこの私であると。そのように裁判で発言したまえ。あなたも有罪になってしまうだろう?そういう切迫したニュアンスが欠落している日本語聖書も英語の聖書も、不完全であると思わないか?

「われ思うゆえにわれあり」って、とても含蓄の有るシャレだと思わないか?神=キリストに頼らずに存在しているんだという高らかな独立宣言なのだ。さすがデカルトである。be動詞のこういう使い方はアリだろう?

実は、唯一神が思っているから我らはあるのだ。ちゃんちゃん♪